教科書問題について2(「つくる会」反対の視点から)

そもそも、公平な歴史観から見た日本を悪にも神にもしない教科書を採用しなければ、韓国や中国の腐りきった教科書を批判することができるという立場を失ってしまう。
そういう意味で今回の教科書のバージョンについては、私は反対という立場を取っている。
どうも、マスコミは「つくる会」の立場に立った展開(反対している人の頭がおかしく見える)をしているように思えるので、あえて反対してみよう。





中学生が教科書から逐一あたら指揮を学ぶというように勉強しているとは考えにくいが、教師が手引書として用いる文章に曖昧な解釈が幾らでも付け加わりうる表現があることには問題がある。教師の手に「委ね」られ、その度に解釈を展げ提示することは正しいことか?そういった曖昧さこそが、一貫した(歴史)観の下に編纂され記述された書を使用すべきという理念に反する。

国民主権とは主権在民といわれる[・・・]この国民とは私たち一人ひとりのことではなく、国民全体をさすものとされている」(「つくる会」公民教科書)に対し、国民全体の代表としての議員という考え方は、貴族政治の是認であり、民主主義とは相容れないことになると、教師は解釈を加えねばならないのか。では何故そもそも一貫した観についての合意が成されていないままにその教科書を採用する必要があるのか。それが不明である。

「日本の緒戦の勝利は、東南アジアやインドの人々に独立への夢と勇気を育んだ」という記述を読んだことにより、戦争の栄光に酔いしれ、憧れをもつといった小中学生は確かに居るわけではないだろう。

それよりも遥かに大きな、メディアの力がそう思わせるに至ることはあっても、*1(また実際、確かに大東亜共栄圏は言葉としてのみではなく、アジア代表者の合意の下で掲げた理想であるが故、上記鍵括弧内の記述が完全に無根のものであると斥ける事はできない。更に、米国に加えられた石油制裁(多々あるが、ABCD包囲網など。)による重大な食料欠乏から戦争を余儀なくせられたことは疑いようのない事実である)

しかし、子供の考えを形成するのは、「親や教師の考え態度次第」と言って、教科書自体は如何なる携帯であろうと構わないとするのは横暴であり、[一貫した考えを提示することのできる態度を保つ]親や教師が存在するという保証はどこにあるのだろう。元来自習的読物として教科書を考えれば、まともな記述のされたものが悪影響よりは良い影響を持つと考えることは自然である。


*1:それ故、この都革新の訴え(方)が過剰であるように見えるかもしれない。ただ、「子供たちを守ろう」というのは一種の話法であり、現在にとどまらず未来に向けて、といった程度の意味であると思われる